~その③:ある保育士さんの話し~
おじさん、岡○さんの隣だったので、「保育園の子供達は全員無事だったのですか」と聞いたところ・・・・
岡○さんは、静かに語り始めました。
地震の時は、園児みんな大丈夫だったのですが、その後ある園児におばあさんが迎えにきて、一緒に家族を探しに行ってその後波にさらわれ、未だに遺体が見つからない子がいたそうです。
その園児が夢にでてきては、「寒いょ、暗いょ」と悲しげに言うのだそうです。
また、仮設住宅では、天井が低く、また断熱もしかっり施されていないため(ご自身も家が津波で流され、お子さん二人と仮設住宅でお過ごしです)、夏は朝から部屋の中が30℃にもなり、湿気も酷く、配給された布団・毛布もすぐカビたそうです。
お年寄りにとっては、とても辛い生活環境なので、岡○さんは、自分の休みを利用してお世話や楽しみの機会を設けているそうです。
BBQが終わり、おじさん食器の洗い物やごみを片付け終わり会場に戻ると、
おいらーく他の職員全員(夢村の職員さんはみんな片付け作業をしていました。念のため・・)片付けもしないで、岡○さんの話しをず~っと聞いているのです。
おじさん、内心・む~っとしたのですが、
次の日、あぁ~岡○さんも話を聞いてくれる人がいてくれることで、少しは癒されているのだと合点したのです。
(職員のみなさん、おじさん心狭く申し訳ありませんでした・ゴメンです)
そして、復興も遅れに遅れているけど、いつかまたこの地にこれたらなと、
少しでも話を聞くことができたらなと、有志一同思ったことでしょう。
(但し、あの膨大な復興予算はいったい何に使われたのでしょう。現場を見るに許しがたい!)
みなさんも是非機会をつくってお出でください。
最後ですが、
帰り道は、釜石⇒(釜石の港です。こんなに静かな海が荒れ狂ったのですね)
釜石の観音様もその時、手を合わせ苦悶の涙をながされたことでしょう。
三陸⇒大船渡⇒陸前高田⇒気仙沼⇒石巻を通って
仙台に着いたのですが、いずこも瓦礫の山でした。
ある物にはシートに覆われ、ある物ははだかのままです。
でも、瓦礫がその種類・種類できちんと仕分けされていました。
ここに、日本人の清潔感と我慢強さ、そして一度決まったら、
弛まない継続する力を、おじさんは感じました。
たった1日です。
「何を判った気になっとる!」と一喝されるかも知れませんが、
来ないことには話しの途につきません。